My log

個人的な日々の記録です。

2日目

朝7時前。目が覚めると、点けっぱなしのテレビでは東京電力が会見を行っていた。内容は聞いていなかったけど、今考えるとおそらく福島原発についての報告をしていたのだろう。もそもそと動き出して、ああ、昨日のことは現実なんだなぁと思った。
テレビではひたすら津波の映像が流れていた。東北のありとあらゆる沿岸部の街が、破壊されていた。今までも津波に襲われた街の悲惨な映像は見たことがあったが、そのどれよりもひどかった。街が消え去っていた。田んぼは湖になっていた。現実感が薄かった。都心部の帰宅難民の様子も取り上げられていた。徒歩での帰宅者に飲食店が食料をふるまっていたことや、人が殺到した駅でも大きな騒動は起きなかったことや、停電した道路でも車が譲り合って事故が起きなかったことなどが紹介されていた。後に世界各国でこの様子が賞賛され、アメリカなどは略奪行為が起こらないことに驚愕しているようだった。多分多くの日本人がそうだと思うが、私にはそれがなぜそんなに驚くことなのかピンとこない。普通のことに思える。むしろ、あんな恐怖体験の後で、略奪などと言う(語弊があるかもしれないが)元気な行為がどうしてできるのか、その方が不思議だ。略奪行為をするということは、世間を離れて自分の身は自分で守るから構うなと宣言する事だ。その方が余程怖い。日本はそういう社会だ。
正直、この日の午前中は何をしていたのか覚えていない。テレビをぼーっと眺めていたのかもしれない。余震が続いていたので、あまり家から離れる気にもならなかった。お昼ご飯を食べて、午後に入って台所の片づけを始めた。台所は、洗った食器を置いておく棚が倒れて、流しの上から床まで落下した。置いてあった食器類は豪快に砕け散り、破片が台所中に飛び散っていた。常々この棚は危ないよなと思っていたら思っていたとおりになったので、苦笑するしかなかった。
食料を確認すると、お米ももうすぐなくなりそうだし、常備のインスタント麺も切らしていた。旦那がトイレットペーパーとビールが切れそうだと言ってきた。停電の噂も流れ始めていたので、乾電池も少し買い足した方がいいかもしれないと思った。近所のドンキホーテとドラッグストアとスーパーを回って、買い物を済ませた。このときは、買占め騒動はまだ序盤戦だった。ペットボトルの水を大量に運ぶ人たちを、"頑張るねぇ"なんて思いながら眺めていた。私は、重いのが嫌でお米は2キロしか買わなかった。"早速トイレットペーパーなんて買って、オイルショックじゃないんだからって感じだよね"なんて、旦那と笑いながら話していた。(後にお米もトイレットペーパーも店頭から消えた)
家の近所では二箇所ほど水道管が破裂して、道路に水が流れ出ていた。それ以外に、被害は見当たらなかった。この辺りは、大丈夫だな。そう思った。
この日は暖かかった。夕飯はしょうが焼きと刺身にした。テレビは全部地震情報だった。とにかく東北各地で甚大な被害が出ていることはわかったが、被害の全体像はさっぱりつかめなかった。映像を見いていても、これでは何から手をつけていいのかわからないだろうと想像できた。原発の問題が徐々に大きく取り上げられ始めていた。私はなんだか良くわからないけれど、なんでこんなに地震と縁深い土地で原発と言う手段を取らなくてはいけなかったのか、疑問を感じ始めていた。尋常じゃない電力消費が背景にあるようにも思えた。今さらで恥ずかしいことこの上ないのだが、原発についてちゃんと知らなくてはと思った。twitterでは家族や親戚、友人、知人の安否情報を求める投稿が飛び交っていた。片っ端からRTしたが、役に立っているのかさっぱりわからなかった。そんな中、デマや間違った情報も流れ始めていた。慎重に情報の取捨選択をしなくてはならなくなっていた。
停電の危険性も言われていた。旦那はまだピンときていないらしく節電への姿勢に私とは温度差があって、ちょっと雰囲気が悪くなった。こんなときは寝てしまえと、節電モードと称して早々に布団にもぐった。一度、割と大きな余震があった。この日も怖かったので、テレビはつけたまま寝た。